【第1章 洋画家加納莞蕾】  

 本年は画家加納莞蕾が平和運動を開始して70年にあたります。
本展では、莞蕾の作品を通してその生涯を辿る初めての大回顧展です。

 加納莞蕾は、若い頃東京に出て岡田三郎助の創った画学校で学びました。1930年の独立美術協会発足後は、島根で教員をしながら独立展へ出品を続けました。フランスで始まったフォーヴィズム(野獣派)の流れを汲む豊かな表現力が高く評価されました。

 

紅葉谷 1932年代 
紅葉谷 1932年代
 

【第2章 日中戦争と加納莞蕾】  

 画家としての道を究めたいと願った莞蕾は、1937年に朝鮮半島の京城(現在のソウル)に移り、翌年から約1年半、従軍画家として中国山西省で戦争の様子を記録しました。終戦とともに島根に帰ると、島根洋画会の創設に尽力するなど新時代の美術の在り方を模索しました。 

 

風陵渡高地占領(複製) 
風陵渡高地占領(複製)
 

【第3章 平和運動を進めた加納莞蕾】   

 1949年から、莞蕾はフィリピンの刑務所に収容されていた日本人戦犯の釈放助命嘆願に取り組みました。彼の行動は単なる助命嘆願ではなく、「赦しがたきを赦す」という考えが世界の恒久平和に繋がると捉えていたところに独自性がありました。そして、この活動と引き換えに彼は展覧会への出品をやめ、画壇との関係を断ちました。

 1953年7月6日、フィリピンのキリノ大統領は日本人戦犯の赦免を認める声明を発表。これにより百余名が無事帰国しました。莞蕾はさらに恒久平和を求める活動を続けました。莞蕾の嘆願活動に関する書簡が現存します。それらを「ユネスコ世界の記憶」に登録するのが美術館の願いです。

 

紫陽花 1953年
紫陽花 1953年
 

【第4章 墨彩画を描く加納莞蕾】 

 戦犯釈放の嘆願活動を進める中、幾多の困難に出会うと、莞蕾は油彩画とともに墨彩画を描きました。戦犯帰国後は、恒久平和確立のための活動を続けるとともに雄渾で自由な墨彩画を数多く制作しました。

 

松濤(六曲一双) 1972年
松濤(六曲一双) 1972年
 

【第5章 そして明日へ】 

 フィリピンと日本は、経済的、人的交流を深めてきました。加納莞蕾とキリノ元大統領の仕事を顕彰するキリノ財団を通して、フィリピンの人々との交流は年々盛んになっています。

黒牡丹 1970年
黒牡丹 1970年