古備前「矢筈口福耳水指 銘 福の神」  備前焼は 、わが国の六古窯(瀬戸・常滑・丹波・越前・信楽・備前)の中でも最も古い焼物で、平安末期(12世紀)ごろ和気郡香変荘伊部(現在の岡山県備前市)周辺で成立しました。

備前焼の特長は釉薬をかけないで焼く無釉焼き締めの方法で、自然な土と火の融合によって生み出される素朴な焼き物です。もともと原始時代の須恵器から流れを汲むもので、すでに鎌倉時代には今日と同じような焼け肌をした備前焼が焼かれていました。

一般的に古備前と総称されるのは主に江戸時代迄の作品で、明治時代以降のものと区別されています。

  現在、備前焼に使う原土は 、大きく分けて山土・田土・黒土の3種類です。これらの粘土を乾燥させ、粉砕し、水に浸し出来た泥漿は、素焼きの鉢に入れられ適当な固さになるまで水分を抜きます。

それを各陶家独特の混合比で山土・黒土などと混ぜ合わせて使用されます。成形はろくろによる方法が最も一般的ですが、江戸初期から作り始められた型作り(細工物)の方法もあります。

備前焼は無釉の焼き締め陶器なので、作品の出来、不出来は、採土・原土調査・策窯などの方法はもとより、作品の窯詰め・焼成の方法に負うところが大きいといえます。

 備前焼の窯の主な形態 には、穴窯・大窯・登窯の3種類があり、現在最も多く使用されているのは登窯です。登窯の場合、窯の各部屋は各種の棚板・支柱鞘などの窯道具で段々に区切られており、作品同士や窯道具との引っ付きを防ぐため稲藁やアルミ粉を用いて窯詰めされ、一窯に大小合わせて約1,000点の作品が入ります。

その際、作品の置き方・重ね方によって、窯の中で焼き物に様々な変化が現れ、それを窯変と呼びます。例えば、燃料室やその近くに置かれた作品の表面が溶け、燃料の松割り木の灰が付着し、胡麻をふりかけたようになったものを胡麻と呼び、また作品の引っ付きを防ぐため稲藁を巻いた大きな作品や、さやの中に入れて焼かれた作品は緋襷となります。

この他にも、緋・牡丹餅・青焼・かせ胡麻・棧切・伏せ焼きなど様々な方法があります。このように、計画的に窯詰めされた作品は、約1,250度で1週間から10日ほど焼かれた後、火を止めて4・5日後に窯出しが行われます。

 備前焼は平安末期から鎌倉初期 にかけてその特長を備え、室町時代の茶道の流行で信楽、南蛮などの焼物と共に、一躍世間で脚光を浴びるようになりました。

そして秀吉の庇護のもと備前焼茶陶は桃山時代に入り開花しました。江戸時代には、備前藩主池田光政公が備前焼を保護・奨励し、窯元から名工を選び御細工人として扶助を与えました。

細工物と呼ばれる布袋・獅子などの置物や香炉など朝廷・将軍家などへの献上品も多く、また徳利・水瓶などの実用品も生産されました。しかし明治時代に入ると、実用陶器は瀬戸などの大量生産品におされ、また茶陶などの嗜好品は後援者たる大名を失ったことにより、衰退の一途を辿ることになります。

しばらく続いた不遇の時代の後、桃山茶陶の再現を目指した人間国宝、全重陶陽の努力によって備前焼が再評価される様になり、その後に続く人間国宝や新しい作家の努力により、現在かつてない繁栄を迎えています。

【写真は古備前「矢筈口福耳水指 銘 福の神」】