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加納莞蕾

加納莞蕾の足跡

加納 莞蕾(本名:辰夫)(かのう かんらい)

加納莞蕾明治37年島根県能義郡布部村(現:広瀬町布部)に生まれる。

岡田三郎助に師事、本郷洋画研究所に学び、前田寛治、佐伯祐三と交友、その影響を受ける。独立美術協会創立にあたって二科展を脱し、これに参加、出品を続け独立美術協会会友となる。

昭和13年京城師団指令部付の従軍画家として中国、山西省に渡り山西省の大自然から「墨に五彩あり」という言葉の真髄を発見する。

終戦によりフィリピン刑務所に戦犯として収容されていた日本兵108名の釈放助命嘆願をおこし、ついに目的を達成させた。

布部という村からたった一人で送った嘆願の手紙は、キリノ大統領、マッカーサー元帥、インドネール首相、ローマ法王等へ300通以上に及び、ついに全員釈放の一助となった。

キリノ大統領自らが、妻や子や兄弟を日本兵に殺されながら世界の友好・平和という崇高な宗教的哲学論に根ざした結論は、莞蕾の文章にもあふれており、その往復書簡も作品と共に公開している。

嘆願書

閣下
 第一嘆願書を奉呈してから200日の間、日本人であるが故に負わなければならない戦争の極悪と罪の意識を反省してまいりました。厳粛な罪の意識と神への深い信念の履行から、裁きの前にある己を認識いたしました。そして「肉体で 生きている生活は、神の子としての信念での生活」ということを悟りました 。「許し難きを許す」という奇跡によってのみ人類に恒久の平和をもたらし、「目には目を」ということでは決して達成し得ないということを、これまで以上に強く感ずる次第であります。

閣下
  閣下の手から残虐にも奪い取られた愛児の名においてー許し難きを許すーこの奇跡が現れることを待ち望むところであります。 何人といえども閣下の胸中に過ぎる悲しみと、怒りと、憎しみの深さを計ることはできないでしょう。私が新たに抱くに到った信念によれば、キリストの如く十字架にかけられる異教徒や不信心者をキリストの足元に寄せ、「主」に感謝し賞賛せしめる慈悲の偉大なる奇跡を顕現させるために努力しているのは、天国にいます閣下の愛児たちでありましょう。

  この崇高なる奇跡の成就のあかつきには、 神にささげられた閣下の愛児の姿を救いの天子として 画布の上に不朽にとどめたい所存であります。それこそ貴国とわが国との平和と一致を生み出す最良の貢献でありましょう。

  私は自ら請願することによって共に裁かれ、神の許しをこう立場にあります。この苦行には絵を描くことは出来ません。全戦犯が古瀬と共に許され復活したその日に新しい画家として出発する決意であります。(一部抜粋)

1949年 10月 加納辰夫

キリノ大統領声明


私はフィリピン服役中の日本人戦犯にフィリピン国会の賛同を必要とする大赦ではない赦免を及ぼした。私は妻と三人の子供とその他五人の家族を日本人に殺されたため、彼等を赦そうとはよもや思ってもみなかった。私は私の子供や、国民がやがてはわが国の恒久の利益の友となるかもしれない国民に、私から憎悪をうけつがめしないことを欲するが故に、これを行うのである。結局運命が私達を隣人となさしめた。 (これはキリノ大統領がそのとき発した声明の一部である。)


1953年(昭和28年)7月6日フィリピン大統領エルビディディオ・キリノがモンテンルパにあるニュービリビット刑務所に服役していた日本人戦犯108名(うち死刑囚59人)の釈放または減刑を通告したとき、入院していたアメリカ、メリーランドのボルチモアにあるジョン・ホプキンス病院の病床からとマニラの大統領府からと、同時に世界に公表されたステートメントである。

加納 莞蕾の作品紹介 (一部)

加納莞蕾の足跡
「襖 柿とざくろ」 

加納莞蕾の足跡
「黒牡丹」

加納莞蕾の足跡
「朝靄」

    

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加納莞蕾の娘、加納佳世子がご案内させていただきます。